弔うように夏を齧った
夏が終わる。
私は生きることに必死なので、毎年その季節に何かを刻みつけようとする。今年の夏は、もしかしたら東京で過ごす最後の夏になるかもしれない。なると良いな。良いだろうか。私には、私のことが分からない。
コロナ流行の夏と、東京五輪真っ只中の夏、パラレルワールドのようだ。実現しなかった夏は、人々の心に宿り続けるだろうね。それぞれに美しいかたちで、補完されて。
私は夏が好きだけれど、今年に限っては夢見心地な思い出で終わらせられるものじゃなかった。本当につらかった。八月の終わりが、ひとつ生き抜くための目標だった。そこだけを見つめて、息を殺して地獄を生きた。本来なら死んだ者が行く場所だろうに。
休みの日は休めばいいのに、欲張りな私はそれでも尚、夏を自分のものにしようと(半ば無意識に)必死だった。
映画館にたくさん行った。ディズニーランドとディズニーシーに行った。友人の家にスイカを丸ごと持ち込んで、齧った。ドライブにも行った。雷雨に見舞われて、終わって欲しいような欲しくないような時間だった。
人生とか旅とか、そんなことについて考える。
現実を見ろと言いながら、夢を叶えようと言う社会。どうせ皆んな無責任だ。
いつか、この夏を抱きしめてあげることができるだろうか。今は少し逃げたいよ。あまりにも疲れてばかりだ。
弱音ばかりで嫌になる、と母。そうだよね。社会人になってから、何度も文章を打ったところでいつも同じことの繰り返しなんだ。それでも書かずにいられない。嫌になるよ。
クーラーばかりの部屋を少しは換気して。扇風機の掃除もして。衣替えをしようか。服も、本も、心持ちも。
私は私の季節を生きるよ。
夏の青さに挨拶をして、秋を迎えにいこう。
おやすみなさい。会いたい人に会えなかった夏。珈琲だけは、変わらず優しかったよ。